熊澤組3年生が語る想いとは(追加しました)
2012/11/26
あの日の屈辱は忘れない。
信じてついてきてくれた熊澤組をいつか真の男にするために・・・・
『日本一』そう言い続けた3年間。その可能性を大いに感じさせてくれた『熊澤組』
3年間の努力があったからこそラグビー部史上初の3位を手に入れた。
この誇りを胸にこれからも熱く生きてほしい。
この先も続く彼らのNever ending story・・・
『熊澤組』が最後に語る3年間の想いとは・・・
早稲田摂陵ラグビー部
主将 熊沢 匡純
11月11日に高校最後の大会が終わった
とてもあっけなく虚しくもあったがまだ終わった感じは正直なかった
次の日、いつものように学校生活を過ごした
放課後4:30
いつもいるはずの同期の仲間や後輩、マネージャー、コーチ、練習前からにぎやかなグラウンドのはずがその日は静かだった
その瞬間「あぁ本当に終わったんだ。グラウンドで仲間とラグビー出来ないんだ」
と痛感し、それと同時に「俺って幸せだったな」って
先輩方には申し訳ないですが、はじめはやる気なく入部したラグビー部
しかし日々練習する中、普段ふざけて面白い先輩方のラグビーに対する姿勢、本気さが感じやる気のない自分がいる場所ではないと感じた
また他のスポーツに比べてとてもキツイ練習、楽しさが見出せなくふてくされた
何度も辞めようとした
夏合宿
三年最後の合宿
最後の二日しか出れなくキャプテンとして何も出来なく二年と三年に任せてしまった
最後の大会中チームは重圧からかばらばらにそれをまとめきれず挙句の果てにチームに怒鳴り散らかし本当にみんなには迷惑をかけてしまった
などなど今振り返ってみると後悔と申し訳なさが考えれば考えるほど出てくる
ですが
高校三年間
色の濃い早稲田摂陵ラグビー部の先輩、後輩、マネージャー、コーチ、監督、応援してくださった皆様と出会い、私は本当に充実した高校生活を送れたと思っています
同期のみんな
優柔不断で人任せな俺だったけどサポートしてくれてありがとう
みんななりの先輩像を必ず後輩は受け継いではず
一緒に最後のグラウンドに立ててよかった
ありがとう
後輩
俺は結局いい思い出で終わってしまったけどお前らはいい思い出で終わるなよ
ラグビーって人も多くて意見の不一致とか孤独感とかしんどさとかマイナス面いっぱあるけど自分達のやっていることに自信持って最後までやればかならず結果はついてくる
一日一日後悔のないように
監督やコーチを本当の男にしてください
お前らなら出来る!!
マネージャー
重いボトルを運んだり、おにぎりをつっくてくれてありがとう
修学旅行我慢して文句もいわずついて来てくれてありがとう
寒い中体丸めながら終わるのを待っていてくれてありがとう
マネージャーのおかげでのびのびとラグビーすることが出来ました
感謝しきれないほど感謝しています
本当にありがとう
先輩方
先輩方の背中をみてここまで成長することが出来ました
また空いた時間を割いて応援に来てくださったり、差し入れや相談に乗っていただきありがとうございました
ラグビーは引退しましたがこれからもおねがいします
藤森コーチ
何度も辞めようとした私を親身になって相談に乗っていただき、また一人の男に育て頂きありがとうございました
時に熱く、厳しく、またある時には優しく
かっこいい人でした
わがままな自分でしたが最後までありがとうございました
森コーチ
仕事との両立が大変なはずなのにチームを優先し学校まで出向いてコーチング
ほとんどプライベートをチームの時間へ
わたしは練習のきつさからありえない態度をしてすいませんでした
また森さんの練習をしたかったです
岩澤コーチ
ラダーやいつもと違うメニューこなせてとても楽しかったです
岩沢コーチのタックルを手本にタックルしてきました
タックルに自信を付けれました
感謝しています
廣瀬監督
試合を組んだり、怪我をしたとき病院につれっていただいたりと私達のために身を削っていただきありがとうございました
廣瀬先生との話はマジで好きでした
語るにもたかれないほど最高な高校生活でした、本当に幸せでした
大阪、全国で一番になれませんでしたが自分の中では、日本一のクラブでした
全国一というやり残したものがありますがきっと後輩達なら達成できると確信しています
わがままなキャプテンについてきていただき本当にありがとうございました
熊澤組 樋口 悦久
11月11日熊澤組が幕を閉じた。3年間の集大成を東海大仰星に全てをぶつけて戦ったが負けてしまった。
入学当時自分は寮の見学に来ていた。そこで偶然にも広瀬先生と藤森先生に出会った。体が大きかったのでラグビー部に誘われた。ここで自分の人生は大きく変わったと思う。中学の時から知っていた橋はラグビー経験者だったので一緒にラグビー部に入ろうといって一緒に入った。それから毎日のように部員集めで必死だった。集めた結果10~20人くらい集めた。先輩には本当に優しくしてもらった。練習がわからなくても丁寧に教えてくれた。何とかして試合に出たくて練習してやっと先輩達と一緒に試合に出れて嬉しかったことも覚えてる。しかし、途中で椎間板ヘルニアにかかってしまい練習も出れず、試合にも出れなくなってしまった。そんな中先輩達の最後の大会が始まった。自分はベンチから応援するしかなかった。必死に応援した。しかし、10月31日高津に負けてしまった。悲しさと悔しさから涙がこぼれ出てきたことを覚えている。先輩から絶対花園に行けよと言われて絶対に行くと決意した。
2年生の新チームになってからは先輩がいないなかやっていけるのか不安だった。しかし熊澤がしっかりとチームをまとめてくれて練習が出来てたと思う。しかし、沢山いた2年生がこの時期になってギリギリの15人に減ってしまっていた。新人戦はギリギリのなか必死に戦っていたのを覚えている。秋の大会では同志社香里に完封負けを喫して来年に向けて頑張ろうと改めて決意した。
最終学年の3年生になった。自分は副キャプテンに選ばれた。今年は花園に向けて練習して沢山試合をして夏合宿も頑張ろうと思った。しかし、5月の徳島遠征で肩を脱臼してしまい練習に出れなくなった。最後の年だから早く治そうと一生懸命ウエイトをした。そして夏合宿前に復帰したがまた脱臼してしまい、夏合宿どころか秋の大会も厳しくなってきた。それでも夏合宿ではチームKの皆で森さんと朝からウエイトをして、歩けないくらい下半身を鍛えて、試合会場まで走った。今となっては楽しい練習だったと思う。夏合宿も終わり皆は外でキツい練習をしているが自分はウエイトルームでウエイト。復帰してからついていけるように必死に練習をした。そうこうしているうちに秋の大会が始まった。もちろん自分はベンチからの応援。1年生の時のように終わってしまうのかと心配だった。だが、チームの皆が頑張って勝ってくれて、茨木戦から復帰することができた。この試合は先輩達が乗り越えれなかった壁でありなんとかして勝ちたかった。そして自分達は勝つことができて次は練習中から意識していた仰星だった。勝つために1週間練習をし続けた。
そして花園第3グラウンドで仰星戦。絶対に決勝で花園のグラウンドに立つと胸に込めてピッチにでた。皆必死に仰星に向かって食らいついた。しかし、結果は57対0で負けた熊澤組が終わった。
本当にこの3年間自分の中でも充実した3年間だった。まずはラグビーを教えていただいた広瀬先生と藤森先生、森さん、岩澤さんに本当に感謝したい。1年生は一緒に練習する時間が少なかったけれど感謝している。2年生にも感謝している。2年生がいなかったら自分達は試合にも出れていないしここまで勝てなかったと思う。そして3年生。皆個性豊かで沢山ふざけ合っていい思い出が作れた。苦しいことも悲しいことも楽しいことも一緒だったからこそ乗り越えることができたと思う。本当にありがとう。そして最後に両親にも沢山感謝している。やっぱり親の力がなかったらここまで続けることはできなかったと思う。感謝してます。ここには書く事ができないくらいの思い出が沢山あるけれども今日はこのぐらいにしておきます。ご購読していただきありがとうございました。
熊澤組 野口 宜裕
早稲田摂陵高校ラグビー部はとても楽しく、充実していました。
自分は高校からラグビーを始めました。ラグビー部に入部した理由は、広瀬監督に進められ、藤森コーチには「日本一にならないか?坊主はないし、練習は2時間だし周りの高校のラグビー部もみんな初心者だからはいれよ!」みたいな…そんな感じで何も考えず入部しました。最初は、楽な部活だなと思いやっていました。しかし半年も過ぎれば、きつい練習があり体重が落ちたら坊主になり、挙げ句の果てには最初の試合、みんな初心者だから大丈夫だろうと試合に出た瞬間、ボールを持ったら人は飛んでくるは、相手は経験者だしデカイは痛いは、全然話と違いやめそうなりました。でも、先輩方が面白い人ばかりで楽しくラグビーを続けることができました。先輩方とずっとラグビーをしたいと思っていましたが、当然の引退で先輩方とラグビーをすることができなくなりました。
先輩方の引退から、自分は本気でラグビーに専念するようになりました。やがて、後輩やマネージャーが入部してくれました。自分の中で、後輩には助けられたくない。なぜなら、「先輩方とのあの悔しい敗戦は俺らにしかわからないから」。同期は20人位いましたが、最後まで残ったのはたったの10人。ラグビーは15人のスポーツで10人ではラグビーができません。なので後輩に力を貸してもらうしかなかったのです。引退して、高2高1がどれだけ良い後輩だったか、言葉じゃ表現できないくらい感謝しています。高2には頭が上がりません。一年間ずっと負けつづけ先輩の言うことも聞いて、自分が思っている以上に大変だったと思います。でも、辞めずに3年に付いてきてくれてこんな後輩を持てた自分は幸せ者です。高1は、変に先輩に気を遣わず、人懐っこくて面白くこの部活に無くてはならない存在でした。なのに、大切な後輩にいつも自分はあたり、数少ない同期にあたり、最低なプレーヤーでした。でも、いつも声を掛けてくれたり、バカなこともしたり本当に自分は周りの人達に支えられていました。
最後の大会が近づくにつれ、入部当時は辞めたいと思っていたのに「辞めたくない。このメンバーでずっとラグビーがしたい」という思いが込み上げ、一人泣いていたのを思い出します。大会は順調に勝ち進み、試合をするごとに強くなっていたのは実感できました。そして、泣いても笑ってもこのメンバーで戦う最後の試合……結果は負けてしまいました。ただただ涙が止まりませんでした。一番嬉しかったのは、後輩も一緒に泣いてくれてことです。後輩がいなかったらこの舞台にも立てなかったし、こんなに楽しくラグビーができていなかったです。自分が後輩に教えた何もなくて、後輩から沢山学ばせてもらいました。ありがとう
思い返せば、嘘か本当かわからない藤森コーチの話にのって入部した自分。遊び半分でやっていたラグビーがいつしか本気で日本一を目指すようになりました。それは、広瀬監督・藤森コーチ・森コーチだからこそ本気で付いて行こうと思えたのです。自分たちのために、365日指導してくれました。僕らが裏切ったことをしても、グランドに出てきてくれました。このコーチ陣のおかげでラグビーも人間性も一回り大きくなることができました。もし、このラグビー部に入って一つだけ後悔があるとしたら、日本一になれなかったことです。それは、自分たちが100%藤森コーチたちの要求を達成できなかったからです。体重もスキルも私生活も。
この素晴らしい環境でラグビーができたのは、毎試合応援に来られた保護者の方々、毎日苦しい顔を一つもせず選手のためにサポートしてくれたマネージャー、最高で最強な同期と後輩、早稲田ラグビーと人として指導して頂いた広瀬監督・藤森コーチ・森コーチのおかげです。本当に3年間ありがとうございました。
<PR 豊島 史都>
2012年11月11日 早稲田摂陵VS東海大仰星 0対57
自分はこの日を一生忘れることはないです。
正直今でも試合のビデオを見ると、スクラムの感触、ラインアウトのボールタッチの感覚、
相手にぶつかっていった衝撃やタックルした感覚が甦ります。
しかしまたこのメンバーでラグビーをすることは寂しいですが二度とないでしょう。
ずっと同じ時間を過ごしてきたFWのファミリーたち、FWが全然ダメなときにチームを支えてくれたBK達。ラグビーだけでなく、社会性や人間的なことまで指導してくださった、廣瀬監督、藤森コーチ。本当に忙しい仕事の合間を縫って駆けつけていただき大阪NO,1FWにしてくれた森コーチ。世話人がいなくて練習の効率も悪く悩んでいたところに入部してくれた沢山のマネージャー達。そして間瀬。選手としてレギュラーを取れる力があるのに、裏方に回ってチームをサポート、管理してくれたおかげでプレーにだけ集中できました。本当にマネージャーと彼の力無しではここまでのチームには成長してなかったと言っても過言ではないでしょう。OFFなんてほとんど無かった生活についてきてくれてホントに感謝しきれません。
今後、練習終わった後バカ騒ぎしたり、部室で遊んだり、試合の帰りに皆で飯を食いに行くこともなくなります。
そんなことを考えてしまうと本当に悲しくて残念で仕方ありません。
後輩には一日でも長くラグビーをして欲しいです。そして自分達が成し遂げれなかったことを一つでも多く達成してもらうためにも頑張ってほしいです。
保護者の皆様、3年間の応援本当にありがとうございました。
試合中に聞こえてくる「早稲田がんばれー」「ナイスプレー!」などの声が耳に入る度に
元気付けられましたし、試合後の差し入れはバラエティー豊富でとても嬉しかったです。
自分達は引退しましたが、後輩達はまだまだ成長の過程で、自分達を超えていってくれると信じていますのでこれからも後輩へのご支援ご声援よろしくお願いします。
熊澤組 上谷昇太郎
私は中学時代野球をしてましたが、元々高校で部活をやるつもりはあまりありませんでした。ラグビーの試合も見たことありませんでした。
勉強ばっかだろうなと思って入った高校でしたが意外にもほとんどのクラスメイトが部活をやると言うのでとりあえずクラブを友達と見て回ることにしました。そして一つ目のラグビー部で捕まりました(笑)
初めてミーティングで配られた紙にはラグビーの基本ルールが書かれてありました。それから先は新しいことの連続でした。最初は受身も取れずに軽くタックル受けるだけで頭打って痛がってました。
先代の真島組が引退してからはひとつ上がいなくてド素人だけが残りました。基本的なパス、ラン、キャッチから始まったのを覚えています。試合は負け続けました。今では何でこんなプレーしたんやろ?ってシーンは山のようにあります。怒られまくって全員が辛かった時期だと思います。それでも我慢して続けました。
二年の十二月に本気で部活をやめかけた時期があります。進路のことを意識し始めた時で、両立できるのか?という悩みが原因でした。ちょうど辛さがピークに達していた時期でもあったので逃げたかったのかもしれません。その時藤森先生は初めて本音で話をしてくださいました。その時やっぱり最後まで続けようと決心しました。実際、チームメイトにも支えられました。「やめる」と言った時チームメイトは止めてくれました。野口はメールも送ってくれて、それからは多少ボロクソ言われても頑張ることができました。ただ単にけなされてるわけじゃないから、それに応えてやろうと思えるようになりました。この出来事があったから私はここまで頑張れたんだと思います。勉強との両立もサポートしてくださり、やり抜くことができたんじゃないかなと思います。
そこからはあっという間だった気がします。日々の練習、夏合宿、ボウリング大会、楽しいことも苦しいこともありましたが充実してました。
そして今回の大阪府予選、私は九月のリーグ戦に出ました。もっとできたんじゃないかと思う場面も多少ありますが一度もトライをとられなかったので成果は出せたと思います。そして四条畷、茨木戦を経てついに花園の舞台に立つことができました。応援、観衆の多さに震えました。試合に出たのは最後の数分だけでしたが、唯一組んだスクラムを東海大仰星相手に押せたことは忘れないと思います。FWはファミリー。最高でした。
ラグビー部での思い出は語りきれないほどできました。本当に充実した三年間を送ることができたと思います。先輩、同期、後輩に恵まれて、保護者の方々に支えられて、今の私は存在します。半ばムリヤリ入れて下さった廣瀬監督、合宿でサポートしてくださり、応援にも来て下さった友次先生、平群先生、早稲田の文化を伝えてくださった藤森コーチ、森さん、岩澤さん。応援してくださったすべての人に感謝したいと思います。そして後輩がいずれ決勝、そして全国の舞台に立ち、あの花園第一グラウンドのスクリーンに早稲田摂陵の文字が記され、荒ぶるが響き渡ることを心待ちにしています。
高校ラグビー最高でした。ありがとうございました。この三年間で得た全てを生かしこれからも頑張ります。
熊澤組 武本直輝
高校生活の中で、この三年間が一番濃密な時間だったと思います。
最初は、ラグビーを好きになれなくて、実は何回か真剣にやめようかと考えたこともありました。
真島組が引退した時に、いろいろな言葉をかけてくださって、とりあえず続けようと思いました。それから、嫌いだったのがだんだん楽しくなってきました。
二年になってからは、上級生がいない中で、一・二年で合宿をし、全然勝てなくて帰ってきたのを覚えています。その後、二年が相次いでやめていき、初めは20人ぐらいいたのも10人になり、チーム内の雰囲気は良くなるどこか、悪くなる一方でした。
そして、新チームで挑んだ新人戦常翔学園相手に113-0 完敗です。
手も足もでませんでした。
それから、キャプテン熊澤を筆頭に、どうやったらもっと強くなれるのか?早稲田としての最上級生とは?など、最上級生としてのあり方を模索しつ続けました。
そして迎えた、11月11日vs東海大仰星結果は57-0 数字上見れば完敗だが、すべてが負けていた訳ではなかった。ファーストから最後までスクラムは勝っていた。これは、森さんがわざわざ練習に来てくれて、FWに教えてくれたこと。藤森先生がいない時は、代わって森さんが練習をしてくれました。当日は仕事上の理由で来てはいなかったけれど、試合に勝つことができず、本当に申し訳ありません。
今思い返すと、体重が上げられず怒られた日、居残り練の後のしゃべり、など一つ一つがラグビー部でなければ味わえなかった経験だと思う。
最後に、マネージャーを含め熊澤組の皆さんありがとうございました。これからもよろしくおねがいします。
三年間指導して下さった廣瀬先生、早稲田ラグビーを教えて下さった藤森先生・森さん本当にありがとうございました。
熊澤組 大家 大周
遅いようで早い3年間。そんなことはありません。自分の中では長くつらい3年間でした。でも茨木高校に勝利したあのときこの18年間の人生になかった最高の何かを与えられました。これは結論です。文章の組み立て方など気にしません。自分の中の最高の表現を一番に持ってきました。
大切なものとなったこのラグビー部での3年間の始まりはほんとに一つの遊びからでした。学校にウエイトルームがあることを知り、寮の友達と受験でなまった体を動かしたいとゆう理由でラグビー部の体験の名を借りてウエイトルームに侵入しました。そこで先輩が一年生を集めてラグビーバックを買うための点呼を始めました。すると忘れもしません20人中15番目だった自分にくるまでの14人全員が手をあげたので勢いであげてしまい、注文しといてお金も払わずに逃げるのがうしろめたくて入部したのがきっかけでした。それはなんの覚悟もなくちゃらんぽらんな自分の性格がもたらしたものでした。最初の練習は遊びのような軽いメニューでした。ところが二年生に上がるころには想像できるわけもない痛くて、つらい練習ばかりで藤森コーチのことを心のそこからペテン師を見る目で見ていた記憶があります。笑 そのころから練習に耐えられない部員が出てき始めました。やめようとする部員を必死でとめている中、二年生のいないチームで挑んだ最後の大会でリーグ戦を勝ち抜きましたが、力は互角とはいえ負けるはずでなかった高津高校に二点差で負けました。試合後の先輩の胸で流したあの涙は忘れはしません。二点の重みを思い知らされました。先輩が引退してから初めとなる練習の悲壮感は二年生のいない自分たちのチームに大きな不安を残していき、ぞくぞくとやめていくなか、中学校のチームと高校の関係を断ってまで村井が入部してくれ、チームに、当時の自分たちに活気を与えてくれました。引退後にこの時期の試合のビデオをみてみると信じられないラグビーをしていました。笑 しかし二年生のときの春の大会で鎖骨を粉砕骨折してしまい、合宿の参加も厳しいとゆわれていて日々のウエイトのつらさや藤森コーチ独特のいやみ口調で嫌気がさして早めに復帰して、再発させてしまった。そこからまた半年間試合に出れず不安とストレスにみまわれた。そんなときにも同期のチームメイトは必要としてくれました。ほんとに感謝の気持ちが絶えません。練習試合でも負けてばかりだったけれども、二年生の後半には森さんの力によって育てられたFMの安定によって時が経つにつれて白星を重ねていました。そして、自分も復帰し迎えた三年の春大では同志社香里と大産大附に二敗しチームの甘さが全面に出てしまいました。しかし自分たちは熊沢のキャプテンシーによって徐々にかわっていきました。そこには、それぞれの葛藤があり、個人としての精神的な弱みが不満を募らせていました。最後の公式戦前にキャプテンを筆頭にその思いが爆発し、本気で大阪のトップ6に勝つための覚悟があるのか、それに見合う努力をしているのかただの改革じゃなく、もうひとつ上の改革を起こすために夜まで話し合った。
最後の大会でノーシードの早稲田摂陵はリーグ戦を無失点に抑え三年間の集大成を幸先よくスタートした。そして四条畷や茨木に勝ち、迎えた東海大仰星。なにもかも未知数な中でも勝ちにいったが、負けてしまいました。
後輩たちにはこの悔しさをバネにして頑張ってほしいです。
熊澤組 橋 嶺佑
僕の3年間の高校生活の中でラグビー部員として過ごす時間は大きな大黒柱の様なものでした。
1年生になったばかりの時、中学の時少しかじったことがあるからと言う軽い気持ちでラグビー部に入部を決意、調子に乗って同期に声を樋口とかけまくり、2~30人集めて体験入部へ、そんな軽い感じの集団をまっていたのは、鬼の様な3年間でした。
上に書いた様に、鬼の様な3年間でしたから、当然脱落者も続出、結局2~30人いた同期も1年後には、15~6人まで減ってしまい、おまけに、3年生も引退してしまい、一時僕らは沈滞ムードに。僕らは一つ上の先輩がいなかったため、3年生に甘やかされて来ました。
だから、3年生がいなくなってかなり不安でした。でも、そんな時頼れる1年が・・・・。
と言いたい所ですが、入部してきた1年(現2年)がこれまたそろいも揃ってなんと言うか、個性豊かな奴だらけ、先生の力に頼りたくなりました、でも主将の熊澤も頑張ってたし、元々藤森先生も、広瀬先生も、「ヘコタレてる奴はぶんなぐってシャキッとさせるぜぇ」的な御方々なので、全然甘えさせてくれず、人手不足、3年生の消失、変人達のありがたい入部、熊澤組いきなりの大ピンチでした。でも今から考えると、あのときの先生陣のキビシめの対応こそ優しさだったんだ、そう思えます。
と、まぁ~キモい事を書きましたが、多分本当です(笑)。
2年に関しては、上で失礼なことを言いましたが、いなかったら僕らは、試合に出ることは出来なかった訳で、実のところ感謝しても仕切れません。僕達と同じ位僕らのために自分達のことを、犠牲にしてくれていたと思います。いい奴らでした。
と、まぁ~キモい事を書きましたが、多分本当です(笑)。
同期に関しては、(えっと、これは早稲田摂陵ラグビーとしての同期なので広瀬先生、藤森先生も含みます)最後まで一緒にやれてよかったと思います。こんな、スペースでわ書ききれません!。同期の皆、2年、そしてかかわり薄いけど泣いてくれた泣き虫1年、そして広瀬先生、藤森先生、アリガトウゴザイマシタ!
と、まぁ~キモい事を書きましたが、全部本当です。
熊澤組 谷場 夏輝
入部してまもなく、僕は右肩を負傷しました。右肩を負傷してからはひたすら左肩でタックルし続けました。
高2の冬に、左肩も負傷しました。それからはタックルするたび、両肩に激痛が走りました。もう無理だと思いました。
1度は辞めようとしましたが、藤森先生と話し合った結果、症状が酷かった右肩の手術を決断しました。「絶対、最後の大会に間に合わせろよ!信じてるいから!」そう言われて僕は復活することを誓いました。
しかし、医者には手術しても、大会には間に合わないと言われました。それでも、僕はとにかくリハビリを頑張れば、なんとかなると思いました。
大会中になってやっとパス練習ができるようになりました。しかし、まだコンタクトプレーの許可は出ていませんでした。さらに、半年間右腕が全然使えなかったせいで、パスがまともに放れず、キャッチも出来ないという始末、練習に入っても、チームに迷惑をかけているだけでした。それでも藤森先生は信じて、僕を茨木戦で使うと言い続けてくれました。期待に応えるため、必死に練習しました。
そして迎えた茨木戦当日、僕は痛み止めを飲み、右肩をテーピングで巻いて試合に臨みました。41-0という満足な結果でした。
この調子なら仰星戦も勝てると思っていましたが、結果は57-0。試合が終わった後は負けた実感が湧きませんでしたが、もうグランドに立つことはないんやと思うと寂しくなりました。しかし、僕は藤森先生との約束を果たすことができて本当によかったです。挫けそうになった時も、先生の言葉が僕の心の支えになりました。また、早稲田摂陵高校でラグビーができたことを誇りに思います。
3年間お世話になった部員、マネージャー、保護者の皆様、廣瀬先生、そして最後まで僕のことを信じてくれた藤森先生に感謝します。
熊澤組 中村 和由
11月11日僕らは早稲田摂陵ラグビー部を引退した。試合の終わりを告げるノーサイドの笛がグランドに鳴り響いた。グランドでプレーしている選手達が泣き崩れながら整列する中、僕はその様子をグランドの外で見ていた。同学年や後輩のプレーを見ていながら、僕がラグビー部でプレーしていた時の光景。みんなとの何気ない会話。そして僕がラグビー部に入部してからの3年間の思い出が走馬灯のように込み上げてくる。涙が止まらなかった…
皆で始めてラグビー部の体験に行った時のことがつい昨日の事だったかのように思い出す。
僕らがラグビー部に入り廣瀬先生や藤森コーチ、先輩方に一からラグビーを教えてもらった事を思い出す。
皆がラグビーの魅力にのめり込んで行く中、僕は1年の夏休みが始まると共に部活を辞めた。今まで続けて来た野球をやらなかった事への後悔、中学の頃一緒にプレーしていた友達の活躍、部活をして寮に帰る繰り返しの毎日に嫌気がさしてしまった。夏休みが終わり、学校が始まっても僕は悶々とした生活をおくっていた。正直皆が部活で一生懸命になっているのがうらやましかった。その中、廣瀬先生や藤森コーチ、同学年の部員の皆が「戻って来い」と声を掛けてくれた。本当にその言葉が嬉しくてたまらなかった。でも、一回辞めたのにも関わらずノコノコ部活に戻るなんて出来なかった。やらなきゃいけないことから逃げる毎日。自分の中で何かを変えたかった。
1年の2学期も終わろうとしている中、「このままじゃ、新人戦のメンバーが足りない」という事を理由に僕はラグビー部に戻った。一回辞めた僕を必要としてくれた事が心の底から嬉しかった。
皆との遅れを必死に取り戻そうと頑張った。そして、いよいよ3年生でここからって時に股関節を疲労骨折してしまい、医者から半年以上の運動停止を告げられた。その時のショックと言ったら言葉に出来ない。1ヶ月、2ヶ月経ってもひかない足の痛み、違和感。皆の本気でラグビーに向かう姿勢、プレーしている姿を見るのが辛かった。正直、思いっきり走りたいし、みんなともっとプレーしたかったと今振り返っても思う。藤森先生と熊澤と話し合って休部という形をとり、最後の大会だけ顔を出した。3年になって一回も部活に顔を出していなかったのに、何も言わずに受け入れてくれた廣瀬先生や藤森コーチ、森コーチ、岩沢コーチ、3年生や後輩達、本当に仲間に恵まれたと思います。ありがとう。
ちょっと俺らしくない文章になっちゃったから改めて感謝を込めて、
本当に休部してから全然部活に行ってなかった僕を何も言わずに迎え入れてくれた事、最後の大会に少しだったけど出させて頂いた事、僕を最後まで仲間として見てくれた事、最後までラグビー部でいれた事、本当に言葉じゃ表せないぐらいの感謝の気持ちでいっぱいです!
本当に廣瀬先生、藤森コーチ、森コーチ、岩沢コーチという最高なスタッフと友達と後輩にめぐり会えて幸せだと思います!
この仲間は一生もん!! 本当に今までありがとうございました!!!
3年 WTB 村井 翔
僕は1年生の秋に廣瀬先生に誘われて見学に行き、その時に藤森先生の見事な話術
(いいね~! センスあるよ! などなど)によりラグビー部に入りました。
入部した時からWTBで試合に出させてもらい、たくさんの経験を積みました。
昔は誰もが認める摂陵のトライゲッターと言われましたが今では‥‥‥。
対戦する相手のレベルが上がったんでしょうね!?
2年生の夏の合宿では慣れないFBのポジションをやりました、僕なりにはめっちゃ頑張ったつもりなんですが毎試合毎試合、後ろのポールに座り込むジベタリアンズから聞こえる声は「ほんとあいつダメだよね~、早稲田のFBとしてなってない、もう試合で使えないね」など、しかもそれをFBの僕だけに聞こえるボリュームで言う性格の悪さ!(笑)
しかしその日のミーティング後に部屋に呼び出され恐れながら行くと、アイスをくれビデオをもう一度見てアドバイスをくれる優しさ!
そのアイス1つにだまされる自分の単純さ!(笑)
秋の大会では順調に勝ち進みAシード同志社香里との試合、結果は負けてしまったけど何本かいいタックルをできたので来年に向けて自信のついた試合でもあり、大阪でラグビーをやることの厳しさも改めて気付かさせられました。
そしてついに最高学年3年生!
合宿直前に右肩をケガしてしまい、最後の合宿をケガ人として過ごしました。
毎朝、朝練の日々。そしてグランドまでは走って行き、とにかく下半身をいじめました。
その甲斐あって旧清和寮での合宿の時の貞光高校戦では絶好調で《はらだ と》までいったんですが、どうしても《きろう》まではいけませんでした。(笑)
3年間はあっという間で、ついに全国大会予選!!!!!!
準決勝の相手は東海大仰星。
試合が始まるまではとても緊張していました、まさかの試合前にトイレに4回!!
この試合の60分間は特別な時間でした。
11月11日はこれからの人生で特別な日になると思います。
最後に今まで大変お世話になった監督、コーチ、保護者の皆様、いろんな人の支えがあったから最後まで続けてこれました。本当にありがとうございました。
あと1年2年は全国目指して頑張ってください。
信じてついてきてくれた熊澤組をいつか真の男にするために・・・・
『日本一』そう言い続けた3年間。その可能性を大いに感じさせてくれた『熊澤組』
3年間の努力があったからこそラグビー部史上初の3位を手に入れた。
この誇りを胸にこれからも熱く生きてほしい。
この先も続く彼らのNever ending story・・・
『熊澤組』が最後に語る3年間の想いとは・・・
早稲田摂陵ラグビー部
主将 熊沢 匡純
11月11日に高校最後の大会が終わった
とてもあっけなく虚しくもあったがまだ終わった感じは正直なかった
次の日、いつものように学校生活を過ごした
放課後4:30
いつもいるはずの同期の仲間や後輩、マネージャー、コーチ、練習前からにぎやかなグラウンドのはずがその日は静かだった
その瞬間「あぁ本当に終わったんだ。グラウンドで仲間とラグビー出来ないんだ」
と痛感し、それと同時に「俺って幸せだったな」って
先輩方には申し訳ないですが、はじめはやる気なく入部したラグビー部
しかし日々練習する中、普段ふざけて面白い先輩方のラグビーに対する姿勢、本気さが感じやる気のない自分がいる場所ではないと感じた
また他のスポーツに比べてとてもキツイ練習、楽しさが見出せなくふてくされた
何度も辞めようとした
夏合宿
三年最後の合宿
最後の二日しか出れなくキャプテンとして何も出来なく二年と三年に任せてしまった
最後の大会中チームは重圧からかばらばらにそれをまとめきれず挙句の果てにチームに怒鳴り散らかし本当にみんなには迷惑をかけてしまった
などなど今振り返ってみると後悔と申し訳なさが考えれば考えるほど出てくる
ですが
高校三年間
色の濃い早稲田摂陵ラグビー部の先輩、後輩、マネージャー、コーチ、監督、応援してくださった皆様と出会い、私は本当に充実した高校生活を送れたと思っています
同期のみんな
優柔不断で人任せな俺だったけどサポートしてくれてありがとう
みんななりの先輩像を必ず後輩は受け継いではず
一緒に最後のグラウンドに立ててよかった
ありがとう
後輩
俺は結局いい思い出で終わってしまったけどお前らはいい思い出で終わるなよ
ラグビーって人も多くて意見の不一致とか孤独感とかしんどさとかマイナス面いっぱあるけど自分達のやっていることに自信持って最後までやればかならず結果はついてくる
一日一日後悔のないように
監督やコーチを本当の男にしてください
お前らなら出来る!!
マネージャー
重いボトルを運んだり、おにぎりをつっくてくれてありがとう
修学旅行我慢して文句もいわずついて来てくれてありがとう
寒い中体丸めながら終わるのを待っていてくれてありがとう
マネージャーのおかげでのびのびとラグビーすることが出来ました
感謝しきれないほど感謝しています
本当にありがとう
先輩方
先輩方の背中をみてここまで成長することが出来ました
また空いた時間を割いて応援に来てくださったり、差し入れや相談に乗っていただきありがとうございました
ラグビーは引退しましたがこれからもおねがいします
藤森コーチ
何度も辞めようとした私を親身になって相談に乗っていただき、また一人の男に育て頂きありがとうございました
時に熱く、厳しく、またある時には優しく
かっこいい人でした
わがままな自分でしたが最後までありがとうございました
森コーチ
仕事との両立が大変なはずなのにチームを優先し学校まで出向いてコーチング
ほとんどプライベートをチームの時間へ
わたしは練習のきつさからありえない態度をしてすいませんでした
また森さんの練習をしたかったです
岩澤コーチ
ラダーやいつもと違うメニューこなせてとても楽しかったです
岩沢コーチのタックルを手本にタックルしてきました
タックルに自信を付けれました
感謝しています
廣瀬監督
試合を組んだり、怪我をしたとき病院につれっていただいたりと私達のために身を削っていただきありがとうございました
廣瀬先生との話はマジで好きでした
語るにもたかれないほど最高な高校生活でした、本当に幸せでした
大阪、全国で一番になれませんでしたが自分の中では、日本一のクラブでした
全国一というやり残したものがありますがきっと後輩達なら達成できると確信しています
わがままなキャプテンについてきていただき本当にありがとうございました
熊澤組 樋口 悦久
11月11日熊澤組が幕を閉じた。3年間の集大成を東海大仰星に全てをぶつけて戦ったが負けてしまった。
入学当時自分は寮の見学に来ていた。そこで偶然にも広瀬先生と藤森先生に出会った。体が大きかったのでラグビー部に誘われた。ここで自分の人生は大きく変わったと思う。中学の時から知っていた橋はラグビー経験者だったので一緒にラグビー部に入ろうといって一緒に入った。それから毎日のように部員集めで必死だった。集めた結果10~20人くらい集めた。先輩には本当に優しくしてもらった。練習がわからなくても丁寧に教えてくれた。何とかして試合に出たくて練習してやっと先輩達と一緒に試合に出れて嬉しかったことも覚えてる。しかし、途中で椎間板ヘルニアにかかってしまい練習も出れず、試合にも出れなくなってしまった。そんな中先輩達の最後の大会が始まった。自分はベンチから応援するしかなかった。必死に応援した。しかし、10月31日高津に負けてしまった。悲しさと悔しさから涙がこぼれ出てきたことを覚えている。先輩から絶対花園に行けよと言われて絶対に行くと決意した。
2年生の新チームになってからは先輩がいないなかやっていけるのか不安だった。しかし熊澤がしっかりとチームをまとめてくれて練習が出来てたと思う。しかし、沢山いた2年生がこの時期になってギリギリの15人に減ってしまっていた。新人戦はギリギリのなか必死に戦っていたのを覚えている。秋の大会では同志社香里に完封負けを喫して来年に向けて頑張ろうと改めて決意した。
最終学年の3年生になった。自分は副キャプテンに選ばれた。今年は花園に向けて練習して沢山試合をして夏合宿も頑張ろうと思った。しかし、5月の徳島遠征で肩を脱臼してしまい練習に出れなくなった。最後の年だから早く治そうと一生懸命ウエイトをした。そして夏合宿前に復帰したがまた脱臼してしまい、夏合宿どころか秋の大会も厳しくなってきた。それでも夏合宿ではチームKの皆で森さんと朝からウエイトをして、歩けないくらい下半身を鍛えて、試合会場まで走った。今となっては楽しい練習だったと思う。夏合宿も終わり皆は外でキツい練習をしているが自分はウエイトルームでウエイト。復帰してからついていけるように必死に練習をした。そうこうしているうちに秋の大会が始まった。もちろん自分はベンチからの応援。1年生の時のように終わってしまうのかと心配だった。だが、チームの皆が頑張って勝ってくれて、茨木戦から復帰することができた。この試合は先輩達が乗り越えれなかった壁でありなんとかして勝ちたかった。そして自分達は勝つことができて次は練習中から意識していた仰星だった。勝つために1週間練習をし続けた。
そして花園第3グラウンドで仰星戦。絶対に決勝で花園のグラウンドに立つと胸に込めてピッチにでた。皆必死に仰星に向かって食らいついた。しかし、結果は57対0で負けた熊澤組が終わった。
本当にこの3年間自分の中でも充実した3年間だった。まずはラグビーを教えていただいた広瀬先生と藤森先生、森さん、岩澤さんに本当に感謝したい。1年生は一緒に練習する時間が少なかったけれど感謝している。2年生にも感謝している。2年生がいなかったら自分達は試合にも出れていないしここまで勝てなかったと思う。そして3年生。皆個性豊かで沢山ふざけ合っていい思い出が作れた。苦しいことも悲しいことも楽しいことも一緒だったからこそ乗り越えることができたと思う。本当にありがとう。そして最後に両親にも沢山感謝している。やっぱり親の力がなかったらここまで続けることはできなかったと思う。感謝してます。ここには書く事ができないくらいの思い出が沢山あるけれども今日はこのぐらいにしておきます。ご購読していただきありがとうございました。
熊澤組 野口 宜裕
早稲田摂陵高校ラグビー部はとても楽しく、充実していました。
自分は高校からラグビーを始めました。ラグビー部に入部した理由は、広瀬監督に進められ、藤森コーチには「日本一にならないか?坊主はないし、練習は2時間だし周りの高校のラグビー部もみんな初心者だからはいれよ!」みたいな…そんな感じで何も考えず入部しました。最初は、楽な部活だなと思いやっていました。しかし半年も過ぎれば、きつい練習があり体重が落ちたら坊主になり、挙げ句の果てには最初の試合、みんな初心者だから大丈夫だろうと試合に出た瞬間、ボールを持ったら人は飛んでくるは、相手は経験者だしデカイは痛いは、全然話と違いやめそうなりました。でも、先輩方が面白い人ばかりで楽しくラグビーを続けることができました。先輩方とずっとラグビーをしたいと思っていましたが、当然の引退で先輩方とラグビーをすることができなくなりました。
先輩方の引退から、自分は本気でラグビーに専念するようになりました。やがて、後輩やマネージャーが入部してくれました。自分の中で、後輩には助けられたくない。なぜなら、「先輩方とのあの悔しい敗戦は俺らにしかわからないから」。同期は20人位いましたが、最後まで残ったのはたったの10人。ラグビーは15人のスポーツで10人ではラグビーができません。なので後輩に力を貸してもらうしかなかったのです。引退して、高2高1がどれだけ良い後輩だったか、言葉じゃ表現できないくらい感謝しています。高2には頭が上がりません。一年間ずっと負けつづけ先輩の言うことも聞いて、自分が思っている以上に大変だったと思います。でも、辞めずに3年に付いてきてくれてこんな後輩を持てた自分は幸せ者です。高1は、変に先輩に気を遣わず、人懐っこくて面白くこの部活に無くてはならない存在でした。なのに、大切な後輩にいつも自分はあたり、数少ない同期にあたり、最低なプレーヤーでした。でも、いつも声を掛けてくれたり、バカなこともしたり本当に自分は周りの人達に支えられていました。
最後の大会が近づくにつれ、入部当時は辞めたいと思っていたのに「辞めたくない。このメンバーでずっとラグビーがしたい」という思いが込み上げ、一人泣いていたのを思い出します。大会は順調に勝ち進み、試合をするごとに強くなっていたのは実感できました。そして、泣いても笑ってもこのメンバーで戦う最後の試合……結果は負けてしまいました。ただただ涙が止まりませんでした。一番嬉しかったのは、後輩も一緒に泣いてくれてことです。後輩がいなかったらこの舞台にも立てなかったし、こんなに楽しくラグビーができていなかったです。自分が後輩に教えた何もなくて、後輩から沢山学ばせてもらいました。ありがとう
思い返せば、嘘か本当かわからない藤森コーチの話にのって入部した自分。遊び半分でやっていたラグビーがいつしか本気で日本一を目指すようになりました。それは、広瀬監督・藤森コーチ・森コーチだからこそ本気で付いて行こうと思えたのです。自分たちのために、365日指導してくれました。僕らが裏切ったことをしても、グランドに出てきてくれました。このコーチ陣のおかげでラグビーも人間性も一回り大きくなることができました。もし、このラグビー部に入って一つだけ後悔があるとしたら、日本一になれなかったことです。それは、自分たちが100%藤森コーチたちの要求を達成できなかったからです。体重もスキルも私生活も。
この素晴らしい環境でラグビーができたのは、毎試合応援に来られた保護者の方々、毎日苦しい顔を一つもせず選手のためにサポートしてくれたマネージャー、最高で最強な同期と後輩、早稲田ラグビーと人として指導して頂いた広瀬監督・藤森コーチ・森コーチのおかげです。本当に3年間ありがとうございました。
<PR 豊島 史都>
2012年11月11日 早稲田摂陵VS東海大仰星 0対57
自分はこの日を一生忘れることはないです。
正直今でも試合のビデオを見ると、スクラムの感触、ラインアウトのボールタッチの感覚、
相手にぶつかっていった衝撃やタックルした感覚が甦ります。
しかしまたこのメンバーでラグビーをすることは寂しいですが二度とないでしょう。
ずっと同じ時間を過ごしてきたFWのファミリーたち、FWが全然ダメなときにチームを支えてくれたBK達。ラグビーだけでなく、社会性や人間的なことまで指導してくださった、廣瀬監督、藤森コーチ。本当に忙しい仕事の合間を縫って駆けつけていただき大阪NO,1FWにしてくれた森コーチ。世話人がいなくて練習の効率も悪く悩んでいたところに入部してくれた沢山のマネージャー達。そして間瀬。選手としてレギュラーを取れる力があるのに、裏方に回ってチームをサポート、管理してくれたおかげでプレーにだけ集中できました。本当にマネージャーと彼の力無しではここまでのチームには成長してなかったと言っても過言ではないでしょう。OFFなんてほとんど無かった生活についてきてくれてホントに感謝しきれません。
今後、練習終わった後バカ騒ぎしたり、部室で遊んだり、試合の帰りに皆で飯を食いに行くこともなくなります。
そんなことを考えてしまうと本当に悲しくて残念で仕方ありません。
後輩には一日でも長くラグビーをして欲しいです。そして自分達が成し遂げれなかったことを一つでも多く達成してもらうためにも頑張ってほしいです。
保護者の皆様、3年間の応援本当にありがとうございました。
試合中に聞こえてくる「早稲田がんばれー」「ナイスプレー!」などの声が耳に入る度に
元気付けられましたし、試合後の差し入れはバラエティー豊富でとても嬉しかったです。
自分達は引退しましたが、後輩達はまだまだ成長の過程で、自分達を超えていってくれると信じていますのでこれからも後輩へのご支援ご声援よろしくお願いします。
熊澤組 上谷昇太郎
私は中学時代野球をしてましたが、元々高校で部活をやるつもりはあまりありませんでした。ラグビーの試合も見たことありませんでした。
勉強ばっかだろうなと思って入った高校でしたが意外にもほとんどのクラスメイトが部活をやると言うのでとりあえずクラブを友達と見て回ることにしました。そして一つ目のラグビー部で捕まりました(笑)
初めてミーティングで配られた紙にはラグビーの基本ルールが書かれてありました。それから先は新しいことの連続でした。最初は受身も取れずに軽くタックル受けるだけで頭打って痛がってました。
先代の真島組が引退してからはひとつ上がいなくてド素人だけが残りました。基本的なパス、ラン、キャッチから始まったのを覚えています。試合は負け続けました。今では何でこんなプレーしたんやろ?ってシーンは山のようにあります。怒られまくって全員が辛かった時期だと思います。それでも我慢して続けました。
二年の十二月に本気で部活をやめかけた時期があります。進路のことを意識し始めた時で、両立できるのか?という悩みが原因でした。ちょうど辛さがピークに達していた時期でもあったので逃げたかったのかもしれません。その時藤森先生は初めて本音で話をしてくださいました。その時やっぱり最後まで続けようと決心しました。実際、チームメイトにも支えられました。「やめる」と言った時チームメイトは止めてくれました。野口はメールも送ってくれて、それからは多少ボロクソ言われても頑張ることができました。ただ単にけなされてるわけじゃないから、それに応えてやろうと思えるようになりました。この出来事があったから私はここまで頑張れたんだと思います。勉強との両立もサポートしてくださり、やり抜くことができたんじゃないかなと思います。
そこからはあっという間だった気がします。日々の練習、夏合宿、ボウリング大会、楽しいことも苦しいこともありましたが充実してました。
そして今回の大阪府予選、私は九月のリーグ戦に出ました。もっとできたんじゃないかと思う場面も多少ありますが一度もトライをとられなかったので成果は出せたと思います。そして四条畷、茨木戦を経てついに花園の舞台に立つことができました。応援、観衆の多さに震えました。試合に出たのは最後の数分だけでしたが、唯一組んだスクラムを東海大仰星相手に押せたことは忘れないと思います。FWはファミリー。最高でした。
ラグビー部での思い出は語りきれないほどできました。本当に充実した三年間を送ることができたと思います。先輩、同期、後輩に恵まれて、保護者の方々に支えられて、今の私は存在します。半ばムリヤリ入れて下さった廣瀬監督、合宿でサポートしてくださり、応援にも来て下さった友次先生、平群先生、早稲田の文化を伝えてくださった藤森コーチ、森さん、岩澤さん。応援してくださったすべての人に感謝したいと思います。そして後輩がいずれ決勝、そして全国の舞台に立ち、あの花園第一グラウンドのスクリーンに早稲田摂陵の文字が記され、荒ぶるが響き渡ることを心待ちにしています。
高校ラグビー最高でした。ありがとうございました。この三年間で得た全てを生かしこれからも頑張ります。
熊澤組 武本直輝
高校生活の中で、この三年間が一番濃密な時間だったと思います。
最初は、ラグビーを好きになれなくて、実は何回か真剣にやめようかと考えたこともありました。
真島組が引退した時に、いろいろな言葉をかけてくださって、とりあえず続けようと思いました。それから、嫌いだったのがだんだん楽しくなってきました。
二年になってからは、上級生がいない中で、一・二年で合宿をし、全然勝てなくて帰ってきたのを覚えています。その後、二年が相次いでやめていき、初めは20人ぐらいいたのも10人になり、チーム内の雰囲気は良くなるどこか、悪くなる一方でした。
そして、新チームで挑んだ新人戦常翔学園相手に113-0 完敗です。
手も足もでませんでした。
それから、キャプテン熊澤を筆頭に、どうやったらもっと強くなれるのか?早稲田としての最上級生とは?など、最上級生としてのあり方を模索しつ続けました。
そして迎えた、11月11日vs東海大仰星結果は57-0 数字上見れば完敗だが、すべてが負けていた訳ではなかった。ファーストから最後までスクラムは勝っていた。これは、森さんがわざわざ練習に来てくれて、FWに教えてくれたこと。藤森先生がいない時は、代わって森さんが練習をしてくれました。当日は仕事上の理由で来てはいなかったけれど、試合に勝つことができず、本当に申し訳ありません。
今思い返すと、体重が上げられず怒られた日、居残り練の後のしゃべり、など一つ一つがラグビー部でなければ味わえなかった経験だと思う。
最後に、マネージャーを含め熊澤組の皆さんありがとうございました。これからもよろしくおねがいします。
三年間指導して下さった廣瀬先生、早稲田ラグビーを教えて下さった藤森先生・森さん本当にありがとうございました。
熊澤組 大家 大周
遅いようで早い3年間。そんなことはありません。自分の中では長くつらい3年間でした。でも茨木高校に勝利したあのときこの18年間の人生になかった最高の何かを与えられました。これは結論です。文章の組み立て方など気にしません。自分の中の最高の表現を一番に持ってきました。
大切なものとなったこのラグビー部での3年間の始まりはほんとに一つの遊びからでした。学校にウエイトルームがあることを知り、寮の友達と受験でなまった体を動かしたいとゆう理由でラグビー部の体験の名を借りてウエイトルームに侵入しました。そこで先輩が一年生を集めてラグビーバックを買うための点呼を始めました。すると忘れもしません20人中15番目だった自分にくるまでの14人全員が手をあげたので勢いであげてしまい、注文しといてお金も払わずに逃げるのがうしろめたくて入部したのがきっかけでした。それはなんの覚悟もなくちゃらんぽらんな自分の性格がもたらしたものでした。最初の練習は遊びのような軽いメニューでした。ところが二年生に上がるころには想像できるわけもない痛くて、つらい練習ばかりで藤森コーチのことを心のそこからペテン師を見る目で見ていた記憶があります。笑 そのころから練習に耐えられない部員が出てき始めました。やめようとする部員を必死でとめている中、二年生のいないチームで挑んだ最後の大会でリーグ戦を勝ち抜きましたが、力は互角とはいえ負けるはずでなかった高津高校に二点差で負けました。試合後の先輩の胸で流したあの涙は忘れはしません。二点の重みを思い知らされました。先輩が引退してから初めとなる練習の悲壮感は二年生のいない自分たちのチームに大きな不安を残していき、ぞくぞくとやめていくなか、中学校のチームと高校の関係を断ってまで村井が入部してくれ、チームに、当時の自分たちに活気を与えてくれました。引退後にこの時期の試合のビデオをみてみると信じられないラグビーをしていました。笑 しかし二年生のときの春の大会で鎖骨を粉砕骨折してしまい、合宿の参加も厳しいとゆわれていて日々のウエイトのつらさや藤森コーチ独特のいやみ口調で嫌気がさして早めに復帰して、再発させてしまった。そこからまた半年間試合に出れず不安とストレスにみまわれた。そんなときにも同期のチームメイトは必要としてくれました。ほんとに感謝の気持ちが絶えません。練習試合でも負けてばかりだったけれども、二年生の後半には森さんの力によって育てられたFMの安定によって時が経つにつれて白星を重ねていました。そして、自分も復帰し迎えた三年の春大では同志社香里と大産大附に二敗しチームの甘さが全面に出てしまいました。しかし自分たちは熊沢のキャプテンシーによって徐々にかわっていきました。そこには、それぞれの葛藤があり、個人としての精神的な弱みが不満を募らせていました。最後の公式戦前にキャプテンを筆頭にその思いが爆発し、本気で大阪のトップ6に勝つための覚悟があるのか、それに見合う努力をしているのかただの改革じゃなく、もうひとつ上の改革を起こすために夜まで話し合った。
最後の大会でノーシードの早稲田摂陵はリーグ戦を無失点に抑え三年間の集大成を幸先よくスタートした。そして四条畷や茨木に勝ち、迎えた東海大仰星。なにもかも未知数な中でも勝ちにいったが、負けてしまいました。
後輩たちにはこの悔しさをバネにして頑張ってほしいです。
熊澤組 橋 嶺佑
僕の3年間の高校生活の中でラグビー部員として過ごす時間は大きな大黒柱の様なものでした。
1年生になったばかりの時、中学の時少しかじったことがあるからと言う軽い気持ちでラグビー部に入部を決意、調子に乗って同期に声を樋口とかけまくり、2~30人集めて体験入部へ、そんな軽い感じの集団をまっていたのは、鬼の様な3年間でした。
上に書いた様に、鬼の様な3年間でしたから、当然脱落者も続出、結局2~30人いた同期も1年後には、15~6人まで減ってしまい、おまけに、3年生も引退してしまい、一時僕らは沈滞ムードに。僕らは一つ上の先輩がいなかったため、3年生に甘やかされて来ました。
だから、3年生がいなくなってかなり不安でした。でも、そんな時頼れる1年が・・・・。
と言いたい所ですが、入部してきた1年(現2年)がこれまたそろいも揃ってなんと言うか、個性豊かな奴だらけ、先生の力に頼りたくなりました、でも主将の熊澤も頑張ってたし、元々藤森先生も、広瀬先生も、「ヘコタレてる奴はぶんなぐってシャキッとさせるぜぇ」的な御方々なので、全然甘えさせてくれず、人手不足、3年生の消失、変人達のありがたい入部、熊澤組いきなりの大ピンチでした。でも今から考えると、あのときの先生陣のキビシめの対応こそ優しさだったんだ、そう思えます。
と、まぁ~キモい事を書きましたが、多分本当です(笑)。
2年に関しては、上で失礼なことを言いましたが、いなかったら僕らは、試合に出ることは出来なかった訳で、実のところ感謝しても仕切れません。僕達と同じ位僕らのために自分達のことを、犠牲にしてくれていたと思います。いい奴らでした。
と、まぁ~キモい事を書きましたが、多分本当です(笑)。
同期に関しては、(えっと、これは早稲田摂陵ラグビーとしての同期なので広瀬先生、藤森先生も含みます)最後まで一緒にやれてよかったと思います。こんな、スペースでわ書ききれません!。同期の皆、2年、そしてかかわり薄いけど泣いてくれた泣き虫1年、そして広瀬先生、藤森先生、アリガトウゴザイマシタ!
と、まぁ~キモい事を書きましたが、全部本当です。
熊澤組 谷場 夏輝
入部してまもなく、僕は右肩を負傷しました。右肩を負傷してからはひたすら左肩でタックルし続けました。
高2の冬に、左肩も負傷しました。それからはタックルするたび、両肩に激痛が走りました。もう無理だと思いました。
1度は辞めようとしましたが、藤森先生と話し合った結果、症状が酷かった右肩の手術を決断しました。「絶対、最後の大会に間に合わせろよ!信じてるいから!」そう言われて僕は復活することを誓いました。
しかし、医者には手術しても、大会には間に合わないと言われました。それでも、僕はとにかくリハビリを頑張れば、なんとかなると思いました。
大会中になってやっとパス練習ができるようになりました。しかし、まだコンタクトプレーの許可は出ていませんでした。さらに、半年間右腕が全然使えなかったせいで、パスがまともに放れず、キャッチも出来ないという始末、練習に入っても、チームに迷惑をかけているだけでした。それでも藤森先生は信じて、僕を茨木戦で使うと言い続けてくれました。期待に応えるため、必死に練習しました。
そして迎えた茨木戦当日、僕は痛み止めを飲み、右肩をテーピングで巻いて試合に臨みました。41-0という満足な結果でした。
この調子なら仰星戦も勝てると思っていましたが、結果は57-0。試合が終わった後は負けた実感が湧きませんでしたが、もうグランドに立つことはないんやと思うと寂しくなりました。しかし、僕は藤森先生との約束を果たすことができて本当によかったです。挫けそうになった時も、先生の言葉が僕の心の支えになりました。また、早稲田摂陵高校でラグビーができたことを誇りに思います。
3年間お世話になった部員、マネージャー、保護者の皆様、廣瀬先生、そして最後まで僕のことを信じてくれた藤森先生に感謝します。
熊澤組 中村 和由
11月11日僕らは早稲田摂陵ラグビー部を引退した。試合の終わりを告げるノーサイドの笛がグランドに鳴り響いた。グランドでプレーしている選手達が泣き崩れながら整列する中、僕はその様子をグランドの外で見ていた。同学年や後輩のプレーを見ていながら、僕がラグビー部でプレーしていた時の光景。みんなとの何気ない会話。そして僕がラグビー部に入部してからの3年間の思い出が走馬灯のように込み上げてくる。涙が止まらなかった…
皆で始めてラグビー部の体験に行った時のことがつい昨日の事だったかのように思い出す。
僕らがラグビー部に入り廣瀬先生や藤森コーチ、先輩方に一からラグビーを教えてもらった事を思い出す。
皆がラグビーの魅力にのめり込んで行く中、僕は1年の夏休みが始まると共に部活を辞めた。今まで続けて来た野球をやらなかった事への後悔、中学の頃一緒にプレーしていた友達の活躍、部活をして寮に帰る繰り返しの毎日に嫌気がさしてしまった。夏休みが終わり、学校が始まっても僕は悶々とした生活をおくっていた。正直皆が部活で一生懸命になっているのがうらやましかった。その中、廣瀬先生や藤森コーチ、同学年の部員の皆が「戻って来い」と声を掛けてくれた。本当にその言葉が嬉しくてたまらなかった。でも、一回辞めたのにも関わらずノコノコ部活に戻るなんて出来なかった。やらなきゃいけないことから逃げる毎日。自分の中で何かを変えたかった。
1年の2学期も終わろうとしている中、「このままじゃ、新人戦のメンバーが足りない」という事を理由に僕はラグビー部に戻った。一回辞めた僕を必要としてくれた事が心の底から嬉しかった。
皆との遅れを必死に取り戻そうと頑張った。そして、いよいよ3年生でここからって時に股関節を疲労骨折してしまい、医者から半年以上の運動停止を告げられた。その時のショックと言ったら言葉に出来ない。1ヶ月、2ヶ月経ってもひかない足の痛み、違和感。皆の本気でラグビーに向かう姿勢、プレーしている姿を見るのが辛かった。正直、思いっきり走りたいし、みんなともっとプレーしたかったと今振り返っても思う。藤森先生と熊澤と話し合って休部という形をとり、最後の大会だけ顔を出した。3年になって一回も部活に顔を出していなかったのに、何も言わずに受け入れてくれた廣瀬先生や藤森コーチ、森コーチ、岩沢コーチ、3年生や後輩達、本当に仲間に恵まれたと思います。ありがとう。
ちょっと俺らしくない文章になっちゃったから改めて感謝を込めて、
本当に休部してから全然部活に行ってなかった僕を何も言わずに迎え入れてくれた事、最後の大会に少しだったけど出させて頂いた事、僕を最後まで仲間として見てくれた事、最後までラグビー部でいれた事、本当に言葉じゃ表せないぐらいの感謝の気持ちでいっぱいです!
本当に廣瀬先生、藤森コーチ、森コーチ、岩沢コーチという最高なスタッフと友達と後輩にめぐり会えて幸せだと思います!
この仲間は一生もん!! 本当に今までありがとうございました!!!
3年 WTB 村井 翔
僕は1年生の秋に廣瀬先生に誘われて見学に行き、その時に藤森先生の見事な話術
(いいね~! センスあるよ! などなど)によりラグビー部に入りました。
入部した時からWTBで試合に出させてもらい、たくさんの経験を積みました。
昔は誰もが認める摂陵のトライゲッターと言われましたが今では‥‥‥。
対戦する相手のレベルが上がったんでしょうね!?
2年生の夏の合宿では慣れないFBのポジションをやりました、僕なりにはめっちゃ頑張ったつもりなんですが毎試合毎試合、後ろのポールに座り込むジベタリアンズから聞こえる声は「ほんとあいつダメだよね~、早稲田のFBとしてなってない、もう試合で使えないね」など、しかもそれをFBの僕だけに聞こえるボリュームで言う性格の悪さ!(笑)
しかしその日のミーティング後に部屋に呼び出され恐れながら行くと、アイスをくれビデオをもう一度見てアドバイスをくれる優しさ!
そのアイス1つにだまされる自分の単純さ!(笑)
秋の大会では順調に勝ち進みAシード同志社香里との試合、結果は負けてしまったけど何本かいいタックルをできたので来年に向けて自信のついた試合でもあり、大阪でラグビーをやることの厳しさも改めて気付かさせられました。
そしてついに最高学年3年生!
合宿直前に右肩をケガしてしまい、最後の合宿をケガ人として過ごしました。
毎朝、朝練の日々。そしてグランドまでは走って行き、とにかく下半身をいじめました。
その甲斐あって旧清和寮での合宿の時の貞光高校戦では絶好調で《はらだ と》までいったんですが、どうしても《きろう》まではいけませんでした。(笑)
3年間はあっという間で、ついに全国大会予選!!!!!!
準決勝の相手は東海大仰星。
試合が始まるまではとても緊張していました、まさかの試合前にトイレに4回!!
この試合の60分間は特別な時間でした。
11月11日はこれからの人生で特別な日になると思います。
最後に今まで大変お世話になった監督、コーチ、保護者の皆様、いろんな人の支えがあったから最後まで続けてこれました。本当にありがとうございました。
あと1年2年は全国目指して頑張ってください。